約 36,420 件
https://w.atwiki.jp/springwater/pages/115.html
西村 琢 Nishimura Takuソウエクスペリエンス株式会社 代表取締役ソウ・エクスペリエンスギフトBlog 経歴 1981年生まれ 26歳 2000年 慶應義塾大学経済学部入学 SYNC(シンク)投資クラブ設立 2003年 松下電器産業アントレプレナーインターンシップ優勝 2004年 慶應義塾大学経済学部卒業 2005年 ソウエクスペリエンス株式会社設立 「モノ」を贈ることを中心とした日本のギフト市場に、ヨガやパラグライダーといった100種以上の「エクスペリエンス(体験)」を贈るというコンセプトで新風をふきこみ好評を博している。今後はギフトのみならず「エクスペリエンス(体験)」にこだわって新しい事業を展開させていく意欲を見せている。 高校時代に株取引を始め、経営に興味を持ち、大学入学後すぐに仲間を募り学生株式投資クラブ「SYNC」を立ち上げる。会社研究のため経営者を直接訪問するなど精力的に活動し注目を集める。この投資クラブで行った仲間との共同作業や経営者たちとの交流で、経営・起業への思いを深める。 大学4年次に松下電器産業アントレプレナーインターンシップに応募。約500人の中から優勝し、松下電器の出資を受けて会社を設立する権利を手にする。 しかし一年後、体験ギフト事業に惹かれ独立。ソウエクスペリエンス株式会社を設立し代表取締役社長に就任。 当ホームページ掲載の記事、写真、イラスト等の無断掲載を禁止します。 Copyright (C) SpringWater. All rights reserved.
https://w.atwiki.jp/springwater/pages/183.html
浅井 慎吾氏 Asai Shingo株式会社アイ・パッション代表取締役社長兼エグゼクティブパッション 経歴 1976年生まれ 名古屋出身 中学~大学までサッカーに全力を注ぐ。 お笑いと関西弁に憧れるという動機不純な理由で、関西大学入学。 大学時代はサッカー以外に貧乏旅行に没頭。 とくにアジアを好んで旅をする。 その際に体感した子供たちの笑顔が高いモチベーションに繋がる。 99年同大学社会学部卒業後、採用・求人関連の広告代理店に入社。 名古屋本社営業部配属。 入社、4年半後、自らの希望で東京転勤。 東京では3年間大手外食企業様から設立間もないベンチャー企業様まで採用困難な企業様を中心にお仕事を頂く。 新人時代は飛びこみ営業1日150件、テルアポ1日200件など泥臭い営業スタイルを経験し、現場の大切さを忘れずに現在も採用コンサルを手掛ける。 クライアントの評価>社内評価をモットーにしてきた人間でまずはお客様のことを第一に考えて行動する。 浅井社長講演のスキルアップセミナーは12/03開催! 詳細はこちら 当ホームページ掲載の記事、写真、イラスト等の無断掲載を禁止します。 Copyright (C) SpringWater. All rights reserved.
https://w.atwiki.jp/mekemekedash/pages/4.html
https://w.atwiki.jp/kotarowaka/pages/13.html
素行
https://w.atwiki.jp/428_tips/pages/25.html
アニメ 『CANAAN』 7話 モニターに映っていたものより Kenji Osawa Birth 09/16/1963 Blood Type A [ Education Work Experience] 1983 Faculty of Medicine the University of Tokyo. 1987 Completed the Graduate School of Medicine. 1988 Postdoctoral Fellow. Departments of Biological Chemistry and Medicine. Johns Hopkins University School of Medicine. 1990 Associate Professor. Departments of Biological Chemistry and Medicine. Johns Hopkins University School of Medicine. 1991 Chief researcher. Departments of Filovirus. A.P. Goldstein Microbiology Laboratories. 1993 Chief researcher. Departments of Antiviral drug. OKOSHI Pharmaceutical Laboratories. 1996 Director Infectious Diseases Therapy Center. OKOSHI Pharmaceutical Laboratories. 2001 General Manager. OKOSHI Pharmaceutical Laboratories. [ Awards] 1993 Medical Initiative Award. Taylor Medical Foundation 1998 Nagai Science prize 2003 Robert Heiden Award for Infectious Diseases [ Major Publications] Analysis of Variable Surface Glycoprotein new model Filovirus Treatment of viral hemorrhagic fever by nucleoside analogues Mapping and all base sequence of new model Filovirus RNA 大沢 賢治 1963年9月16日生まれ 血液型 A [ 学歴と職歴] 1983 東京大学医学部入学。 1987 医学部卒業。 1988 博士号研究員としてジョーンズ・ホプキンス医大医学部生化学科と薬学科所属。 1990 ジョーンズ・ホプキンス医大医学部生化学科と薬学科准教授就任。 1991 A.P.ゴールドシュタイン微生物学研究所糸状ウイルス部門主任研究員就任。 1993 大越製薬研究所抗ウイルス薬部門主任研究員就任。 1996 大越製薬研究所伝染病治療センター所長就任。 2001 大越製薬研究所部長就任。 [ 受賞] 1993 医学イニシアティブ賞。テイラー医療財団。 1998 ナガイ科学賞 2003 ロバート・ヘイデン賞。伝染病部門。 [ 主な業績] 新型糸状ウイルスの変異性糖たんぱく質表面の分析 ヌクレオシド類似体を活用したウイルス性出血熱の治療法 新型糸状ウイルスRNA全塩基配列の解析 和訳に関しては個人が行ったものであるため 間違いや誤訳に関しては編集をお願いいたします。
https://w.atwiki.jp/pj_watch/pages/12.html
#あらやだ、またPJの皆さまの掲示板からリファラが。だからあれほどURL踏んだら自動で相互リンク張られちゃうWikiとかblog臭いURLはh抜きで! うっかり抜いてないやつ見ても直に踏まずにブラウザにコピペして見にいけと申しましたのに…まさかまた和歌山様じゃないでしょうね?──以上2005/5/19深夜加筆。 というわけで、2005年4月なかばに小田タマの経歴を追えネタは一応ネタ切れ気味になり、5月頭の「PJ板のURLがpj_links@Wiki様に引っ掛かって見に行ったら、某有名ジャーナリストを私怨丸出しに2ch厨並みのセンスで名付けた呼び方で呼んでいて、PJおよびスタッフにドンビキされている小田タマの勇姿が拝めてしまっただよ」事件までまたーりしていたのですが… 小田タマの個人ブログ 私人的電脳日記 http //blog.livedoor.jp/klx98/ #個人的には電脳……てタイトルにめっさあたまくらくらするのですが。皆さま平気? http //blog.livedoor.jp/klx98/archives/2005-05.html#20050517 2005年05月17日 (小田たま執筆新聞記事が続くので略。全部で11件かな) 「取材の思い出1」 昨晩、某誌の記者とカメラマンが小生の自宅に夜回り取材にいらした。テーマは小生の過去の経歴問題だという。その記者いわく、小生が共同通信やロイター通信で仕事をしたことは無かったと取材してきた、その確認に来たのだという。せっかくお越しいただいたので、道ばたでお話しするのは何なので、自宅に入ってもらおうとしたが、家族がすでに寝ていたので、近くのモスバーガーでコーヒーを飲みながら、話をした。 記者とカメラマン氏はまったくをもってまともな人で、現在のジャーナリズム状況や、匿名であること無いことをいたずら書きする心ない人々の問題などを話し合った。せっかくだったので、機会があればPJニュースに投稿していただくことを依頼したり、PJ塾の参加をお誘いした。 まあ、この機会に小生の取材の思い出でも披露しよう。たいした内容でないので、公表するようなものでもないが。 一枚目の添付写真は(以下、小田たまの個人的な思い出話なので略) 「匿名であること無いことをいたずら書きする心ない人々の問題」 ……あん、イッちゃう……wwwwww しっかしこれも妙な話ですよね。世間的にはどう考えても無名としか言い様がない小田たまの経歴を調べにくるなんざ、はなはだ意味わからん。わざわざ小田たまの経歴を問題にするような人って、現段階ではうちら暇人くらいだろーと思うのですが。 スレ住人だろうとか、Wikiはまってます(はぁと)とかまでは言わないにしても、不思議雑誌記者様方、スレ見てことは確実と思われるのですが…江川ショウコウねたには突っ込まれなかったんでしょうか。 信用していいのか小田たま。少なくとも大多数のチャンネラはまともに社会生活営んでいて、仕事中に「うはwww」とか口にしたりはしませんよ。生暖かい視線で見守ることはあるかもしれないけど。 つーか緊急性があるわけでもないこんなネタに、なんで「家族が既に寝ている時間の自宅に」記者がやってくの? 普通に昼間にヒルズあたりで昼間にアポ取りすればいいっぽなのに…謎です。このへんマスコミの慣習ってよく存じませんので、お詳しい方いらっしゃいましたらコメントいただけますと幸いです。 ちなみにこの後、小田たまの執筆したり写真撮ったりした記事のデジカメ画像UPシリーズが続くのですが、この前の記事。 http //blog.livedoor.jp/klx98/archives/2005-05.html#20050515 2005年05月15日 記事の盗作で思うこと TBSのコラムで無断転用が発覚したニュースがマスメディアの大問題として報じられている。確かに、剽窃の問題はジャーナリズム自体に関わる一大事だ。 これに関連して、ストレート・ニュースで同業他社の記事を引用した場合、引用先を明示していれば、著作権侵害にならないのだろうか。このことは国内ではあまり問題視されていないみたいだが、実はジャーナリズム業界の存在そのものに大打撃を与える深刻な問題だ。 たとえば、筆者が在籍していたブルームバーグ・ニュースではその当時、「○日付け△新聞によると」というりをつけた上で、記事の内容を無断転載していた。これは少なくとも、P・H東京支局長に指示によるものであった。 新聞協会のルールなどによれば、これは明らかな著作権侵害に当たる。それはそうであろう。同業他社の記者が汗水垂らして集めた情報を、いとも簡単に、コンピューター上でコピー・ペーストして、それを商品として売るのだから。まさに、フリーライダーだ。 それを組織ぐるみで行っているのだから、ブルームバーグが報道機関であるとするならば、深刻なモラルの問題だ。これを筆者が社内で指摘すると、それまで同社のホームページ上でその記事を公開していたものを、契約するクライアントのみにしか閲覧できないようにするなどの隠ぺい工作じみた措置をとった。 また、この問題はブルームバーグ・ニュースの記者自身の問題でもある。筆者など数人を除いて誰一人として、この体制に異を唱えるものもいなかった。その数人はすべてブルームバーグを去った。外人上司に従順で社畜のような自称記者が幅をきかせている。 ブルームバーグが報道機関ではなく、金融情報サービスであるとしても、著作権の問題は免れないだろう。そして、金融情報サービスであれば、記者クラブへの加盟資格などない。 この問題が日本国内で放置されているには、それなりの理由があるのだろう。これらの詳細をこれから、PJニュースなどで報じていくことにする。 Posted by klx98 at 17 36 │パブリック・ジャーナリズム おいおいおいおいおい…その記事&写真の著作権は当時「研修」してた通信社にあるのではなーいのですか? 記事撮影画像だからどんぴしゃじゃないけど、ヤバめの悪寒… #以降現行スレの関連レス収録の予定。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/wwenorider/pages/58.html
2006 - 2009年 2006年8月にWWEとディベロップメント契約を結び、OVWに送り込まれる。早くに南部タッグ王座を獲得し、2007年2月には、ポール・バーチルからOVWヘビー級王座を奪取した。3月31日に行われた父親のWWE殿堂入り表彰式に出席している。 その後リングネームをコーディ・ローデスに変え、5月にスマックダウンのダーク・マッチに出場。そして7月2日のRAWに、父ダスティの紹介で初登場する。父と共にランディ・オートンと抗争した。 2007年10月頃より師匠的存在のハードコア・ホーリーとタッグで活動。同年12月のRAW15周年大会では父も見守る中、世界タッグ王座を獲得した。 2008年6月のWWE Night of Champions 2008ではテッド・デビアス・ジュニアとミステリアスパートナーとの対戦が決定。PPV当日には実はコーディがテッド・デビアス・ジュニアのパートナーであることが発覚。ハードコア・ホーリーを裏切り一瞬の隙を突いてDDT放ちデビアスにフォールさせ、異例な形ながら自身にとって二度目の世界タッグ王座を獲得した。この出来事によって、ヒールターンする。 その後7月のRAWにてジョン・シナ&バティスタ組と対戦し王座陥落する。しかし翌週のRAWで再度シナ&バティスタ組と対戦し、相手側の内輪揉めを利用し三度目の世界タッグ王座を獲得した。このタッグ王座は後にCMパンク コフィ・キングストンに奪われる。タッグパートナーのテッド・デビアス・ジュニアがランディ・オートンに襲撃され欠場したことからオートンとの抗争が始まるかと思われたが、同じく二世レスラーのマヌと共にオートンの誘いを受け"レガシー"の一員となった。さらにシム・スヌーカもレガシーに加わる。 2009年からレガシーはオートン、デビアス、ローデスの3人体制となった。以降は試合に乱入し抗争相手を襲撃するなど、デビアスと共に主にオートンのサポートとして活動していた。デビアスと共にトリプルHの王座獲得を阻んでいたため、トリプルHとの抗争していた。その後トリプルHが休場していたショーン・マイケルズを呼びよせD-ジェネレーションXを再結成したためDXと抗争を繰り広げる。
https://w.atwiki.jp/wwenorider/pages/26.html
2000-2004年 2000年にMMWA-SICWにてプロレスデビュー。その後すぐにWWEの下部組織であるOVWに移籍する。2002年の4月にWWEのSmackDown!に昇格。程なくして肩を負傷し長期欠場を余儀なくされるが、その間も自身の怪我の回復具合の申告とファンからの応援メールを募集する「RNN」のプロモで出演を続け、「番組中の良いところで必ず割って入るどうでも良いコーナー」という趣旨でファンの顰蹙を買うキャラクターとなる。9月にRAWに移籍した。 2003年1月20日、トリプルH、リック・フレアー、バティスタがスコット・スタイナーを倒す事を手伝ったのをきっかけに、トリプルH率いるチーム、エボリューションにトリプルHの後継者として入団。しかし直後に負傷し長期欠場することとなった。 2004年サマースラムにて復帰後は2003年末に獲得したIC王座を7か月間に渡り防衛、これは過去10年間で最長の記録となった。王者の期間にはミック・フォーリーとも抗争、Backlash 2004では王座の懸かったノー・ホールズ・バードマッチで対戦し、画鋲の上に落とされたり、有刺鉄線で殴られるなど大苦戦の末、有刺鉄線の上に必殺のRKOを決めてタイトルを防衛し、この試合で名を一気に上げた。バッド・ブラッドではシェルトン・ベンジャミンとの王座戦で防衛成功。その後王座陥落後、バトルロイヤルを制し世界ヘビー級王座への第一挑戦権を獲得。3週間後の2004年8月15日に行われたPPV、SummerSlamにて世界ヘビー級王座に挑戦。試合終盤でRKOを決めて王者クリス・ベノワに勝利し、WWE史上最年少24歳で世界ヘビー級王者になる。 ミック・フォーリー戦での勝利以降からシングルプレーヤーとして十分に売り出せるようになったと判断され、世界ヘビー級王座獲得の翌日にエボリューションから離脱する。アングル上は、エボリューションのリーダー・トリプルHを差し置いて世界ヘビー級王座を取ってしまったことが裏切りとみなされてエボリューションを追い出された形をとり、またオートンとエボリューションの抗争ストーリーもスタートした。2004年9月に行われたUnforgivenでトリプルH相手に防衛を失敗し、世界ヘビー級王座から陥落する。 2005年 2005年最初のPPV、「New Year s Revolution」「Royal Rumble」で王座に連続で挑戦するが、2連敗した。 4月に行われた、WWE最大のイベント「WrestleMania 21」では、この大会で12連勝を誇る墓堀人ジ・アンダーテイカーに挑戦を機に父のボブ・オートンと組みヒールターンをした。試合では善戦したが、最後はデッドマンに敗れた。 同年に行われたドラフトでRAWからSmack Down!に移籍する。移籍後は肩の負傷で休養していたが、SummerSlam前に復帰し、ジ・アンダーテイカーとの抗争を開始した。テイカーの蝋人形を棺桶に入れ、テイカーをかく乱させようとするなど、心理戦を挑んだがテイカーの方が一枚上手だった。No Mercyで、WWEでは初のハンディキャップ形式の棺桶戦でテイカーから勝利を奪い、棺桶ごと放火してしまった。下記のサバイバー・シリーズ後にテイカーは復活、Armageddonにてヘル・イン・ア・セルマッチで闘ったが、死闘の末親子共にツームストーン・パイルドライバーを受けて敗北を喫した。 Survivor Seriesで行われた、RAW対SmackDown!の対抗戦のSmackDown!代表メンバーに加わることになって、最後はショーン・マイケルズにRKOを決めてSmackDownに勝利をもたらした。 2006年 Royal Rumbleでは30番手での参加も、優勝目前でレイ・ミステリオに敗退した。その後、エディ・ゲレロに対する暴言でミステリオを挑発し、No Way Outでミステリオの持つ王座挑戦権を賭け試合を行い、勝利して挑戦権を奪取した。WrestleMania 22では、結局トリプルスレット形式[1]となった世界ヘビー級王座戦でレイ・ミステリオ、王者カート・アングルと対決したが敗退。 WrestleMania 22終了後、WWEより「最低60日の謹慎処分」との発表がなされた[2]。7月に謹慎処分を解かれ復帰した。 2006年7月15日、テキサス州ダラスで行われたSaturday Night s Main Eventで、ハルク・ホーガンの娘であるブルック・ホーガンに接近し、それが親バカであるホーガンの逆鱗に触れ、ランディの挑戦をホーガンが受ける形で試合がSummerSlamで実現。しかし試合に敗れたためレジェンド狩りには失敗した。 2007年 レイテッドRKO 2007年2006年秋よりエッジとのタッグ、レイテッドRKOを結成してD-Xとの抗争に入った(詳しくはレイテッドRKOを参照)。しかし翌年のNew Year s Revolutionで行われた世界タッグ王座戦にて対戦相手のトリプルHが大腿四頭筋を断裂し、以降長期欠場に入ったためD-Xとの抗争は不完全燃焼に終わる。その後もレイテッドRKOとしてエッジとの不仲を仄めかしながらWrestleMania 23を迎え、マネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに参加した。ラダー上からのRKOを決めるなど健闘したものの、勝利にはあと一歩届かなかった。バックラッシュ2007では、ジョン・シナ、ショーン・マイケルズ、エッジ とのフェイタル4ウェイ形式でのWWE王座戦に挑んだが王座獲得とはならなかった。 レイテッドRKO解消後[3]は、冷血キャラが前面に出され、「相手の顔面を蹴り飛ばし負傷させるパフォーマンス」を行うようになり、このムーブがそのままパント・キックとしてフィニッシャーに昇華された。ショーン・マイケルズやロブ・ヴァン・ダムに長期出場の怪我をさせるというアングルも演出した。ヴェンジェンスでは、ジョン・シナ、ミック・フォーリー、ボビー・ラシュリー、キング・ブッカーとのWWE王座戦に出場。グレート・アメリカン・バッシュではダスティ・ローデスとテキサス・ロープ・ルールで対戦。不利な状況ながらも見事に勝利を収め、ダスティ・ローデスをも沈めた(その結果、ダスティの息子コーディ・ローデスと対立するようになった)。 夏以降は王座戦線に復帰し、サマースラムでジョン・シナの持つWWE王座に挑戦するも、一瞬の隙をつかれて敗戦した。アンフォーギヴェンでシナに反則勝ちを収めた後[4]、ジョン・シナの負傷[5]に伴い王座は空位となり、ノー・マーシーでビンス・マクマホンからWWE王座ベルトが授与された。しかし、ビンスを挑発し無理やり王座戦を組ませたトリプルHに1試合目で敗れ、早々に王座を奪われる。トリプルHは王者としてウマガと対戦し防衛。最終試合、オートンにとってその日2試合目、トリプルHには3試合目となるラストマン・スタンディング・マッチ形式で戦い勝利し、ノー・マーシーでは2回WWE王座に君臨した。その後翌日のRAWで電撃復活を果たしたショーン・マイケルズと抗争を開始。サイバー・サンデーでは、辛うじて反則負けで王座を死守する。その前後にわたり6週連続でスウィート・チン・ミュージックを食らっていたオートンは、サバイバー・シリーズでのマイケルズとの再戦でマイケルズのスウィート・チン・ミュージックを反則とするルールを利用し、一瞬の隙をついてRKOを決めて王座を防衛する。Armageddon2007では、こちらも電撃復帰したクリス・ジェリコと対戦。試合ではJBLが乱入し、反則負けに終わった(王座は防衛)。 2008年 Royal Rumble 2008では自身のWWE王座をかけて、ジェフ・ハーディーと対戦し勝利。NoWayOut 2008では、ロイヤルランブルで電撃復帰し、優勝したジョン・シナと対戦したが、オートンがレフェリーを殴り試合はノーコンテスト。それに怒ったシナに試合後、F-UとSTF-Uを喰らった。WWE王者として登場したレッスルマニア24では、トリプルHとジョン・シナを相手に三つ巴戦で防衛に成功した。その後、バックラッシュでのジョン・シナ、トリプルH、JBLとのエリミネーション形式の4ウェイ戦ではシナをパント・キックで排除して、残ったトリプルHとの勝負の末、トリプルHに王座を奪われる。ジャッジメント・デイではスティールケージマッチ、ワン・ナイト・スタンドではラストマンスタンディング・マッチでの王座戦に挑んだが、連敗した。ワン・ナイト・スタンドの試合の終盤にトップロープから落とされて左鎖骨を骨折したため欠場に入った。9月のRAWにて復帰すると、ダスティ・ローデスの息子コーディ・ローデス、ミリオンダラー・マンの息子テッド・デビアス、アファ・アノアイの息子マヌ、ジミー・スヌーカの息子シム・スヌーカといったいわゆる二世、三世のレスラーを従え"レガシー"を結成する。途中でスヌーカ、マヌを追放し最終的にはコーディ・ローデス、テッド・デビアスと三人で行動。 2009年 1月のRAWでステファニー・マクマホンに平手打ちされた事に対し謝罪を要求するも、同日久しぶりに登場したビンス・マクマホン会長に却下される。いらだったオートンはビンスに平手打ち、パント・キックを加えて病院送りにしてしまう。そんな中、ロイヤルランブルにレガシーとの共闘、マクマホン家との対立を抱えたまま出場。レガシー3人とトリプルHが残り、トリプルHがコーディとテッドを落とした隙にトリプルHを落とし、ロイヤルランブル戦で優勝する。翌日RAWでセラピストと弁護士、レガシーの2人を連れ立って登場したオートンはビンスへのパント・キックの件に関して、IED(間欠性爆発性障害)と呼ばれる、ふとしたきっかけで異常なまでの怒りが爆発する精神疾患が原因であると釈明。しかしそれで済む筈もなく、シェイン・マクマホンの襲撃に遭う。その後数週にわたり襲撃の応酬は続いたが、ノー・ウェイ・アウトの反則裁定無しの一戦でシェインを下した翌日のRAW、再戦したシェインをとうとうパント・キックで病院送りにし、更にはシェインをかばいに現れたステファニーにRKO。そこに数年前にストーリー上ステファニーと離婚しているトリプルHが駆けつけ、スマックダウンでは自身がステファニーの夫と明かし、オートンへの怒りを露にした。二人は激しい抗争を経てレッスルマニア25大会ではメインのWWE王座戦で戦ったが、トリプルHに自身が得意なパントキックで頭を蹴られ、スレッジハンマーで殴られ最後はペディグリーを決められてしまい敗れた。翌日のRAWで会長のビンス・マクマホン氏との試合中にシェイン・マクマホンとトリプルHが乱入、さらにオートンのパントキックで負傷中のバティスタが復活してリングに乱入、スピアーを喰らった。Backlash2009大会のWWE王座戦ではテッド・デビアスとコーディ・ローデスを従え、トリプルH、バティスタ、シェイン・マクマホンと6人タッグで戦った末、トリプルHにRKOとパントキックを決めて自身3回目となるWWE王座を獲得した。エクストリーム・ルールズでバティスタに金網戦で敗れ、王座を失うが次週にレガシー全員で襲撃し、骨折(アングル上)させて休場送りにした。その為、空位になった王座を電撃復帰したトリプルH、ジョン・シナ、ビッグ・ショーと4人戦でビッグ・ショーをRKOで沈め、王者に返り咲いた。その後はレガシーを使うなどあの手この手で王座を防衛していたが9月のブレーキング・ポイントでの"アイ・クイット"マッチでシナに敗れ王座を失う。しかし10月のヘル・イン・ア・セルでシナに勝利しWWE王者に返り咲く。その後のRAWでランディ・オートンとシナが抗争に終止符を打つと宣言し、ブラッギング・ライツでWWE王座をかけてアイアンマン・マッチで対戦するがシナに再び王座を奪還される。シナが勝利した場合には王座移動するまではオートンはシナに挑むことができないという取り決めにより、王座戦線から離れて王座戦の最中に援軍を撃退したコフィ・キングストンに標的を定めて抗争を開始する。サバイバー・シリーズの生き残り戦ではコフィに敗れ、生き残り戦での2敗目を喫することになったが、TLCのシングル戦でリベンジを果たした。 2010年 TLCでシナがシェイマスにWWE王座を奪われたことにより再び王座戦線に加わる権利が与えられ、コフィ、シナとの三つ巴戦を制して王座挑戦権を獲得する。ロイヤルランブルのWWE王座戦ではシェイマスを追いつめるもレフェリーの目の前でコーディが介入してしまい、反則裁定により敗北する。裁定後にはコーディ、止めに入ったデビアスに激しく暴行した。
https://w.atwiki.jp/wwenorider/pages/63.html
大学卒業後、兄と共にハーリー・レイス・レスリング・アカデミーでトレーニングを積み、2006年7月8日にWLW(World League Wrestling)でプロレスデビューする。2007年4月1日にはNOAHに参戦し、6人タッグマッチに出場している。 2007 - 2009年 2007年7月にWWEと契約し、FCW (Florida Championship Wrestling) でトレーニングを開始する。12月18日にはTJウィルソンに勝利し、FCW南部ヘビー級王座を獲得するがその後左膝骨折、指の骨折などの怪我により防衛戦を行なえず、2008年1月19日にパートナーのヒース・ミラーに王座を譲る。 2008年5月26日のRAWでヒールとしてデビューし、世界タッグ王座を獲ると宣言する。6月のWWE Night of Champions 2008でハードコア・ホーリー コーディ・ローデスとの世界タッグ王座戦でミステリアスパートナーが来ないまま試合開始となる。すると、コーディ・ローデスがハードコア・ホーリーを裏切りDDTを決めるとデビアスがフォールを奪い、ミステリアスパートナーはコーディだと明らかにし、デビアス コーディが新王者となる。8月4日にはジョン・シナ バティスタ組に王座を奪われるが翌週、王座奪還に成功する。その後はクライム・タイムにベルトを盗まれたことにより、抗争を開始する。またこの頃からランディ・オートンとも対立し始める。9月頃からマヌを仲間に加え、3人で活動する。10月末にはCMパンク コフィ・キングストン組に敗れ、王座を奪われる。11月に対立状態にあったオートンの試合に乱入したことによりパントキックを浴び、戦線離脱する(実際はDVDで発売される映画「マリーン2」撮影のためのアングル)。 2009年1月にレガシーを追放されたシム・スヌーカ、マヌと共に登場するがマヌとスヌーカを裏切りレガシーへ加入する。以降はオートンの試合に乱入しては相手を襲撃するなど、コーディと共にオートンのサポートをしている。 ローデスと共にトリプルHの王座獲得を阻んでいたため、D-ジェネレーションX再結成のきっかけを作ってしまい抗争を繰り広げ、ブレーキング・ポイントではDX相手に勝利するもののヘル・イン・ア・セルで敗れ、抗争は終了する。 その後はブラッギング・ライツの予選試合でローデスに敗れ番組対抗戦の出場権を奪われたり、ローデスと組んでオートン&シナと闘ったタッグ戦ではシナに気を取られていたオートンを後ろから丸めこみフォールを奪うなどして仲間との関係も微妙なものとなっていった。翌週組まれたオートンとのシングル戦で懲罰を受けたが、ブラッギング・ライツでローデスとともにオートンを援護するなどして元の鞘に収まった。
https://w.atwiki.jp/buraku2/pages/19.html
永井配信の経歴(2008~) 第九部 さよならスロ板編<後>(2008.1.1~) 2008年 1月11日 ゴールドXR拷問配信3日目でついに確率1/8192のPGGを引く。スレに『明日朝早いからもう寝るわ』と書かれているのを読み上げ、 「おいおい、寝た五分後ぐらいにひくんだがwいいのか?w」といいながら押したレバーで全消灯。突然の事態にスレも永井も歓喜の嵐に包まれた。 「神はこういう台本を用意していた」という名言まで飛び出した。 ↓ 1月13日 永井兄弟ガチスロバトル第三幕~華麗なる蝶の舞~開催。互いに南国育ち設定4、ジーコが負ければ「シーマン2」ひろゆきが負ければ「アイマス10週」という罰ゲームを賭けての一戦となった。(途中リスナー数2600人越え) 序盤はひろゆきが永井をひきはなしたが、永井が般若心経で二度も当たりをひきこむ奇跡をみせるなど神がかった展開で追い上げた。 最後は般若心経で終了のベルをひきこみ、いいオチもつけ、結果ひろゆきがこの勝負をものにした。 ↓ 2月2日 久しぶりのパチスロ実機配信。永井家初の5号機がリスナーから届く。事前に永井にはその音楽の良さから絶賛していたマーベルヒーローズが届くことが知らされており、公式HPに「マーベルきたぁああああ!!!!!!」とまで書くほど永井は大歓喜! だが、配信で開封すると出てきたのはマーベルヒーローズではなく、モーニング娘。であった。 最初は落胆していた永井であったが、プレイを続けていくうち、自分がモーヲタだった時代を思い出し、懐かしんだ。 ↓ 2月14日 バレンタイン配信。去年は貰えたP子からのチョコが無く落胆する永井。更に毎年の母・祖母からのものも今年はなく、「手渡しチョコは0個」という事でややテンションが下がっていたが、浩二・博之(と正宗)にファン達から大量のチョコが届く。 ↓ 2月17日、永井板2にて今後の掲示板のあり方について意見を募る聴取会が開催され、「管理は基本的に永井自身が行う」「BANの基準は各自察すること」「荒らしに対しては専用スレでIP公開の処分を行う」等が確認された。 ↓ 2月24日 深夜の天鳳兄弟バトル配信。お互い3戦し、どちらが合計点数が高いかを、負ければ永井がライドウ配信、博之がアイドルマスター配信という罰ゲーム付きで勝負。初戦から永井が9万点をたたき出し、自らをゴッドジーコと煽るなど勝敗は決したかと思われたが、博之の倍プッシュ案により最後までわからない天鳳史上最も熱いバトルとなった。 結果、神がかり的なひきときれをみせた永井が勝利し、散々ごねた博之も渋々ながら、後日罰ゲームを決行することを約束。 ↓ 2月25日 浩二配信終了後、引き続いて博之のイミソーレ配信。午前3時20分頃、奇跡が起きる。 ↓ 3月2日 博之自身初である『アイドルマスター』決行。かねてから幾度も「アイドルマスターだけはやらん」と言っていた博之も、罰ゲームとあってリスナーのためと銘うって、嫌々ながらプレイ開始。 ↓ 3月24日 博之配信「龍が如く2」内のミニゲームである将棋に、永井が挑戦した。 その戦術は「王を前線で戦わせる」という常軌を逸した肉弾玉砕戦法であり、当然苦戦を強い入れられた。だがとても逆転できないような状況でも諦めず、最後まで粘り続け、まさかの逆転勝利をおさめた。 永井先生が永井名人になった瞬間であった。 ↓ 3月26日 ひろくん、ライドウクリア。 ↓ 4月2日、解約していたサミータウンに再入会、久々のサミタ配信を行う。永井の登場に多数のリスアバターが(リスナーと思われる)追っかけを始める。この後約一月に渡って定期的にサミタ配信が行われるようになる。 ↓ 4月3日 ひろくん、ドラクエ5攻略開始。 ↓ 4月17日 博之配信「ドラゴンクエスト5」 はぐメタブートキャンプ~そして伝説へ 20日は午前2時50分頃からキャンプ再開。案の定テンションがやけに高い博之の絶叫で、浩二は眠れず隣室から起きてくる。合いの手を入れたり雑談で間をつないだり、肝心のところで般若心経を唱えるなど、弟を必死でサポートするも、睡魔が限界となり午前8時前にダウン。しかし、その約1時間後の、20日午前9時28分ついにはぐれメタルをGETした。(944匹目)テンション最高潮の博之は食欲も眠気も吹っ飛び、その後も配信を継続。愛するあまり仲間にしたはぐりんのレベルをMAXにしようとするが、住民の猛反対もあり、仕方なくストーリーを進めることになる。結局17日の記録に並ぶ約12時間の長時間配信となった。 ↓ 4月25日 ひろくん、ドラクエ5クリア。 ↓ 4月26日 ジーコ、ひろくん、トシのウイイレ配信→絶体絶命都市2攻略開始。以後、絶体絶命都市2の続きはひろくんが単独で攻略。 ↓ 5月5日 ひろくん、絶体絶命都市2クリア。 第十部 永井板2BAN騒動編(2008.5.9~) 5月9日、永井のサミタ配信(Eカード)と前後して永井板2にて大量のBAN(地域プロバイダ規制)が発生した。 以後、不定期に規制と解除が繰り返されるようになる。 この一連の規制により多数の難民が発生したため、永井の古巣であるスロ板の避難所に住民が流出した。これを境に、一連の規制と永井ら管理側の態度に批判的な住民と、 管理側の行動に好意的な住民の対立が深刻化してゆく。 ↓ 5月21日 ひろくん、FF5(PS ファイナルファンタジーコレクション収録)攻略開始。 ↓ 6月5日ひろくん、FF5クリア。レア武器・ジョブ等、さんざんこだわりを見せてきたにもかかわらず、最後はぜになげに頼るという大波乱の展開に。住民に心底叩かれたがいつもどおり博之はマイペースにエンディングを見続け空気を読んで即座に退散。華麗なスルー技術を見せ付けた。 ↓ 6月9日、永井の30歳の誕生日ということもあり配信に期待が寄せられていたが、公式Blogに永井への誕生日プレゼントに対するお礼の言葉が書かれただけで、この日配信はなかった。久々の配信を心待ちにしていた住民によって永井板2は大荒れとなる。 ↓ この頃、ニコニコ動画にアップされていた一部の永井動画がうp主本人に削除される(『永井先生の国際交流』等の再生数6万超になる人気動画含む)。 ↓ 同日 ひろくん、龍が如く2を遂にクリア。引き続き自腹で買ってきた悪魔城ドラキュラ闇の呪印攻略開始。 ↓ 6月23日、ひろくん、悪魔城ドラキュラ闇の呪印クリア。 ↓ 6月29から30日にかけて、立て続けに永井板2で永井の殺害をほのめかす様な書き込み及びスレ立てが行われる。 6月29日の段階では当該書き込みがスレごと削除される処分に留まったが、翌日(30日)に永井殺害を示唆するスレッドが立てられるに至って管理側が通報処分を行う。 ↓ 7月3日早朝 ひろくん配信中に永井が降臨、二ヶ月ぶりの復活に永井板は歓喜する住民で溢れ返った。 先日の殺人予告や一連のBANなどの暗い話題には触れず、兄弟でパチンコ実機配信(CR倖田)を行う。 ↓ 7月20日 前永井先生@wiki閉鎖。プライバシーの侵害・名誉毀損の二点において、 「生活に実質的な被害が生じている」と永井氏本人が主張したことが理由とのこと。 ↓ 同日19時頃、ピアキャスト配信者佐々木とスカイプ対談を行う。 久しぶりのピアキャスト配信者二大巨頭の対談ということで永井板は活気付いたが、 その他のスレ(BAN民避難所や佐々木板)などでは、BAN騒動には勿論全く触れなかったことや、 ジーコのテンション自体が低かったことに加え、前wikiの閉鎖騒動もあり、 このスカイプ対談自体が「wiki問題の火消し」との冷めた意見が大半だった。 ↓ 7月30日未明、永井板2に突如永井浩二本人が降臨。また悪意のある者が迷惑行為に及ぼうとしてるらしく、自分も博之も少し疲れたので、配信をしばらく休みます(レス番号16)とのこと。その直後に永井板閉鎖。 ↓ 9月6日未明、NHK-BSの番組「ザ☆ネットスター!9月号」内において、 ネットで話題になっている単語として、「永井先生」があがる。 番組内では「現在出演交渉中」とのナレーションがなされたが、永井兄弟は配信休止中であり、実現しなかった。 第十一部 ニコ生で復活=jukeと永井先生=編(2010.4.26~) 2010年 4月26日、ニコニコ生放送の放送主Jukeの放送枠内にスカイプで永井兄弟が話をするという形式で1年9か月の沈黙を破り復活した。 ※以下ニコニコ大百科から転載(できるだけ中立な情報にするため、一部表現を変えています) 前述の通り永井兄弟の復活は、生放送主であるJukeの放送にskypeでのゲスト出演という形で行われた。Jukeによれば、永井は親友Jukeの一年間に及ぶ説得に応じて出演したという。 しかし、復活当初は「皆兄弟を求めているだろうから俺はじじゅうする」と裏方に回っていたにも関わらず、途中からJukeは永井先生の発言を遮って話し始める上、その自分語りは長時間に及んだ。それに対し視聴者が批判コメントをし、それにもいちいち突っかかったため、それがさらに顰蹙を買うこととなる。 また、永井先生自身も、視聴者をイラつかせるJukeに対して発言された批判コメを全て「荒らし」と断じ、Jukeを擁護する発言を繰り返した。そして、放送の中でJukeを自分の親友だとも語った。しかし、この「親友」という言葉に対し疑問を呈する視聴者も現れ始めた。 というのも、永井先生がアラジンチャンスのBGMで「ケイコごめんよ」の歌を歌うように頼まれた際のJukeの態度が親友のそれとは思えなかったからである。頼まれた当初、永井先生はさすがに恥ずかしいのか、歌うことを渋り、関係ない話でお茶を濁そうとした。ところが、Jukeはこうした態度の永井先生に対し突然、「ごちゃごちゃ言ってないで歌えやコラ!」と怒鳴りつけたのである。こうしたことから、永井先生とJukeの間には上下関係があり、永井先生はJukeに頭が上がらないのではないかという推測する者も現れ始めた。ついには「愛媛の奴隷」という揶揄の言葉さえ生まれた。しかし、結局のところ永井先生とJukeとの間に何があったについては定かではない。 また、ゆきと(生放送主)を批判した際に、「しょうもない事言いよる奴はサンクスかローソンかすき家か吉牛の店員か、もうそんなレベル。マジで。それぐらいやろなレベル低い」と発言してしまった。これにより、職業差別をしたと判断されてしまい、ついには永井先生自身が叩かれる理由を作ってしまった。 ↓ 5月、画伯という配信者がブロッコリーという別の配信者に対しJukeのスカイプIDを聞いたところ、ブロッコリーは画伯にそれを教えてしまう(ただし、この二人は別に公の場でそのIDを曝したわけではない)。そして、Jukeに対しゆづか姫(生放送主)を騙ってJukeにスカイプチャットやメールを送った。このことにJukeが激怒し、Jukeの親友である永井先生はJukeと共にブロッコリーを批判する生放送を行った。この放送の中では、Jukeはブロッコリーに対し、少額訴訟を起こすつもりだと語った。さらにブロッコリーの生放送のミラー画像を出し、その外見を「犯罪者の顔」「のび太」等と呼んで中傷した。しかし、この中傷が原因で、放送中に運営側からBAN(強制停止)される。 Jukeと永井先生はこの運営の仕打ちに怒り、5月16日の生放送で運営と画伯とブロッコリーを徹底的に批判した。さらに「著作権侵害」を理由に運営側に対してニコニコ動画にアップロードされている全ての永井関連の動画を削除するように要求した。そして永井先生は引退宣言を出し、2度と配信を行わないことを明言した。ただし、Jukeの方は単独でニコニコ生放送で配信を続ける意思を表明した。その後、永井先生の動画を投稿したユーザーの一部は、自主的に永井動画の削除を開始した。自主的に削除された永井動画の中には、再生数が70万回以上を誇った「組曲『永井動画』」も含まれている。この件に関し、画伯は「自分は単にJukeに対してスカイプチャットやメールの送信しか行っていない」と釈明し、責任は自分にJukeのIDを伝えたブロッコリーにあると説明した。 5月20日のJukeの生放送で復帰した。この時の放送は、以前とはうって変わって静かなものであり、Jukeと永井先生のエギング(イカ釣り)に関するやり取りが続いた。 5月24日午後5時28分に、元PeerCast配信者の佐々木健介がニコニコ生放送にて復活した。この佐々木の生放送中に偶然にも同じく生放送していたJukeと永井先生は、それを見ながら佐々木に関するコメントを出した。佐々木は放送の中で、永井先生は嫌いだがJukeは敵に回したくないと語った。しかし、その後に行った永井先生のニックネームを決めるアンケートによって状況は一変した。そして、これで永井先生とJukeがキレる原因を作ってしまった。 というのも、佐々木は、「1.モルボル永井」・「2.歯糞乞食野郎」「4.愛媛の恥」という選択肢を用意し、リスナーは「3.豚の奴隷」という選択肢を用意したからだった。永井は嫌いだがJukeを敵に回したくない佐々木にとって、この3番目の選択肢は予想外だったらしく、自分の考えた選択肢を選ぶようにリスナーに呼びかけた。なお、結果は69.0%で3番目が圧勝した。これを聞いていたJukeは生放送中の最中に佐々木を中傷するようなことを言ったため、運営からBAN(強制停止)されてしまう。その後、Jukeは2つ目のプレミアムアカウントを用いて再度生放送を開始するも、物の数分も経たずしてBANされてしまう。 こうして全てのアカウントを停止されてしまったJukeと永井先生は、永井先生の持つアカウントを使って再度生放送を行った。そして、2度目のBANについては全く納得がいかないと怒りを露わにした。永井先生は、「何歳ぞマジで」・「帰れ」・「お前らホント大概にせえよマジで」・「来るなや」など、運営に面白がって通報したリスナーを強い口調で批判し、怒りのあまり泣き出してしまった。Jukeは何故か佐々木に対する批判コメントを出した。なお、この放送の中で永井先生は、「俺一人でやりよったらそんなにならんぞホントに」とも言った。 現在 (2012.2~) 2012年 永井先生はその後もJukeと共にニコ生で散発的に配信を行なっていたが、2012年2月の時点で、完全にJukeとは手を切った事が、Juke自身により明かされる(永井先生側からのコメントは特にない為、真相は不明)。 尚その際、Jukeが永井浩二公式Webサイトの管理人(通称・公式管理人)だった事も明かす。 永井先生の今後の動向については、現在の所は不明である。